山田長政を知っていますか?[日泰友好]
タイで一国の王になった日本人[山田長政]
今から約400年前にタイで活躍した日本人である山田長政を知っていますか?
彼は大名の籠担ぎから身一つでタイに渡り、
アユタヤのリゴールという国の王にまでなりました。
彼が一体どのような人物であったのかご紹介します。
山田長政の略歴
山田長政は1590年に駿河国(静岡県)で生まれました。
1590年は豊臣秀吉が全国統一を成し遂げた年です。
アユタヤ(タイの王朝)に来るまでは殿様の籠担ぎの仕事をしていたそうです。
長政は初め武士としての成功を志しましたが、
日本では関ヶ原の合戦が終わり平和な時代が始まろうとしていました。
長政は日本での武士としての成功を諦めて、
海外に行くことを決意します!
1610年頃に朱印船でアユタヤに渡り、
まず日本人町で貿易関係の仕事に従事します。
またタイと隣国の戦争にも参加し、どんどん頭角を現します。
これらの活躍から長政は日本人町でリーダーになります。
さらに日本人義勇隊の隊長として二度もスペイン艦隊を撃退して、
国王ソンタムからの信頼を得ます。
そして遂に1628年にはタイの最高の官位であるオークヤーに任じられ、
セナーピムックという名を賜ります!
タイで最高の官位を得た長政ですが、国王ソンタムが後継者を決めず死去したため権力闘争に巻き込まれてしまいます。
長政はアユタヤ勢力下のリゴール王国の国王に任命されます。
国王といえどアユタヤで力をつけた長政を警戒した政敵によって事実上左遷されたのです。
リゴール王国は非常に統治が難しい土地でした。
隣国のパタニ王国から何度も攻撃を受けていたことやアユタヤに反乱を企てる勢力がいたからです。
しかし長政は統治の難しいリゴール王国をうまく治めます。
幾多のパタニ王国との戦闘に勝利しました。
でも最期は毒殺されてしまうんです。
リゴールをうまく統治した長政を恐れた政敵に殺されたと言われています。
当時のアユタヤ日本人町
アユタヤ時代にタイに住んだ日本人はアユタヤ日本人町で暮らしました。
南北約570メートル、230メートルの敷地に最盛期で、
1000~1500人の日本人が暮らす活気に満ちた町であったようです。
彼らの職業は主に3種類で、
1.傭兵2.商人3.キリシタンです。
傭兵
傭兵は日本で武士だった人達です。
山田長政もこれに含まれます。
当時のアユタヤは近隣諸国やスペインと戦争していたため多くの傭兵が必要でした。
また日本には数々の戦をくぐり抜けた武士が身を持て余していまいした。
アユタヤと日本の需給が一致したため、
多くの武士がアユタヤへ渡り傭兵になりました。
日本の熾烈な戦国時代を生き抜いた彼らは非常に強く、国王からも尊敬されていたようです。
商人
当時の日本人町は軍事面以外にも朱印船貿易によって貿易面で非常に発展しました。
それを支えたのが商人達です。
アユタヤは日本の高性能な刀や鎧を求め、
日本は鹿やサメなどの皮革製品を求めたため、
日本人商人がその仲立ちをしました。
日本とアユタヤの貿易量は凄まじく他の国からタイにやってきた貿易商の取引量の合計より多かったそうです。
キリシタン
アユタヤは宗教に関して非常に寛容であり、
日本で禁教令が出てから信仰を守りたいキリシタンの人々がアユタヤに逃れてきました。
山田長政の子孫はいる?
長政には息子がいました。
名前はオインと言います。
彼は長政の死後、
跡を継ぎリゴール王になりました。
しかし謀略によって失脚しカンボジアで亡くなりました。
オインは子供がいなかったため長政の子孫はいないと言われています。
しかし日本人町は18世紀まで存続し、
その後タイ人と同化しました。
当時の日本人の子孫はタイ人としてアユタヤにいます。
現在のアユタヤ日本人町
長政たちが暮らしたアユタヤ日本人町は、
「アユタヤ日本人町跡」として残っています。
今年リニューアルが完了したので、
ぜひ行ってみてください。
日本人町 เมืองญี่ปุ่น (muang yeephun)
兵士 ทหาร (taharn)
戦争 สงคราม (Soang kram)
王様 ราชา (Raa shaa)
貿易 การค้าระหว่างประเทศ (Gaan kaah rawang prathaet)
アユタヤ อยุธยา (Ayuttaya)